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ポーランド旅行記 2013

 僕がずっと訪れたかった国「ポーランド」。

 ドイツ、ロシア、ハプスブルク等列強に囲まれていたポーランドは常に厳しい圧力を受け続け、国家が消滅という悲惨な時期をポーランドは経験してきました(消滅期1795~1918)ロシア革命後にソビエトが樹立され1918年にはポーランドはロシアより独立するが、1939年ナチスドイツがポーランドに侵攻!
 第二次世界大戦が勃発すると、ナチスは強制収容所をポーランドに作りユダヤ人を大量虐殺しました。
 
1945年に終戦を迎えますが、平和が訪れたわけではありません。米ソ両陣営が睨み合い、ポーランドをはじめとする東ヨーロッパはソビエト社会主義の陣営に組み込まれていく冷戦へと突入してゆくのです。

ポーランドの歴史といえばこのような暗い歴史を誰もが連想します。しかしポーランドのクラコフやワルシャワは他のヨーロッパの古都と同じくらい美しく街ですし、誇るべき栄光の歴史があります。
 有名なショパンだけでなく数多くの音楽家を生みだしたクラシック音楽の宝庫の国でもあります。


ポーランドの歴史は、この地に5世紀からスラヴ(ポラニエ人)が定住し、モラビア帝国の建設をはじめる。 966年ピアスト王朝がキリスト教を受容。1000年頃からボレスワフ一世が国を統一する。
 11〜12世紀にユダヤ人がポーランドに移住。このころ(1241年)は日本は元寇襲来この日本と同じくモンゴル軍がポーランドにも襲来。モンゴル軍はヨーロッパまで遠征したのです。強い!
 15世紀最盛期を迎えるヤギェウォ朝ではリトアニアを合併。とポーランドは大きくなるが、スウェーデンに介入しすぎたことなどからヤギェウォ朝は滅亡。そしてルネサンス時代後の1795年〜暗い国家消滅時代。  20世紀に入ると2度にわたる世界大戦で大きな打撃を受ける。

 1980年代はソビエトを核とする社会主義経済が行き詰まり自由管理労働組合「連帯」が発足し全国規模のゼネストを組織しこれが東欧革命の礎の1つとなり、続く1989年にベルリンの壁が崩壊。連帯議長ワレサ(グダニスク造船所出身)が大統領になり1990年からの現在は民主化の道を力強く歩み続けている。





現在はポーランド語に、カトリックが信仰されている。かの有名なヨハネパウロ二世はポーランド出身。

ポーランドの通貨はズローチですが、EU加盟後はユーロになるようです。

ポーランドは平原という意味の通り高い山等がほとんどない平野の国です。

ヨーロッパの中では珍しい原生林も残ってる。農業国で牛肉や小麦、イモ等が主力。

 グダニスクやクラコフは鉄鋼金属もさかんだが.国産車はないようです。賃金水準は800〜1000ユーロ(10~15万円)とやや低く若者の国外流出問題がある。

ポーランドの人口は3850万人でやはり日本ほどではないが少子化、離婚増問題も。

 ポーランドはコークスがとれるが石油は無いのでロシアから買っているがロシア人との関係は良好ではないのです。

そういえば、ちょうど今回の旅行時期に日本の総理大臣阿部首相がポーランドに訪問していました。原発の技術をポーランドに売り込むようです。 東北大震災での福島原発大事故の傷が癒えてない今だけに。。。考えてしまいますが、エネルギー獲得にむけて各国の思惑がふき出している現代の国際関係です。

「クラコフ」


美しい中世の街並みのクラコフはポーランドの古首都です。(17世紀からはワルシャワが首都)
クラコフはポーランドの大河ヴィスワ川の娘をさらう悪いドラゴンを退治した職人クラコにちなんで名づけられた。
 ヴィスワ川による交易、ヴェリチカの岩塩の流通により11世紀~ウィーンとならび中欧で最も栄えた。
 
 バベル城は11世紀〜16世紀までポーランドの歴代の王が住んでいました。


「中央市場広場」は1257年に作られた広場でヨーロッパ最大。かつての織物会館には現在、土産物屋が軒を連ねている。馬車、
バザール、カフェ、大道芸と、ずっとここで過ごしていたくなる美しい広場。


「クラコフのユダヤ人地区


カジメェシェ地区は映画シンドラーのリストの撮影が行われた場所です。映画の冒頭では白黒で戦時中のこの地区の混乱を描いています人ごみの中に赤い服のユダヤ人少女が登場します。しかしドイツ狙撃主により。。。こんな幼子が。。。

「アウシュヴィッツ ビルケナウ」

 クラコフから西へ60Kmにあるアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)は1940年にナチスにより作られた最大の強制収容所。ヨーロッパ各地から列車(かっしゃにギュウギュウ積め)で運ばれた多くのユダヤ人が過酷な労働、ガス室、リンチなどで150万人殺された。
 全体では400万人〜600万人もが殺された。多くはユダヤ人、そして反ナチス、ジプシー、体が弱い人、同性愛者も殺された。
 アウシュヴィッツの入り口の門の上には、ALBEIT MACHT FRI 「労働すれば自由になれる」という鉄で作られたスローガンが見えます。

「ビルケナウ」では労働力にならないとナチス医師により判断された人々が殺された。




「グダンスク」

クラコフから夜行寝台列車で深夜グダニスクへ向かいます。
翌朝グダニスク到着。

かつてグダンスクは湿地帯だったので多くの杭を打って作られた埋め立て地。
ワルシャワ同様グダンスクも戦火により街のほとんどが焼けたが、市民が一丸となり美しい中世街を復興。

グダンスクはハンザ同盟の地なのでドイツ商人が多く住んでいた街です。ドイツやオランダ風の裕福な建物が多く残っていて素敵な街なみです。

バルト海沿岸グダンスクドックヤードは超ド級の造船所群。世界大戦勃発の地でもある。
かのワレサ議長はグダンスク造船所出身。



「ショパン」

ショパンは、20才の時、音楽活動の幅を広げるためウィーンに向かうが、なんとその時期に祖国ポーランドにロシアが攻め込む!ワルシャワ市民は蜂起するが蜂起は失敗に終わる。

愛国者ショパンも蜂起に加わりたい!と祖国に戻ろうとするが、友人に「君は身体が強くないから戻るべきでない、祖国ポーランドのためにも立派な作曲家にならないと。」と言われ、つらい気持ちの中ワルシャワに戻るのをあきらめたと、言われています。

その決断のおかげか、今日でもポーランド民族音楽の美しいリズムをもつショパンはピアノ曲をたくさん作りました39才という短い生涯でしたが、ショパンの美しいメロディは地球上の多くの場所で演奏され続け、これからもずっと人々を癒し続けることでしょう。

二度とワルシャワに戻ることは出来なかったが、ショパンは大好きなこの地で人々をやさしく見守っています。



                                                           読んで頂きありがとうございます。 2013年  小島太郎
  
かやはら音楽教室