命の恩人

 私には、命の恩人というべき方が居ました。と申しますのも、その方は既にこの世には居ないからです。その為、どんなに逆立ちをしても、その方の恩に報いる事は出来ないのです。

 その方と初めて出会ったのは、私が、行き場を失った時によく出掛けていた場末の映画館でした。

 その日は、映画を見る気力もなく、ロビーにあった長椅子でぐったりしていました。その時、どうされましたか?という声に、ふと顔を上げると、人の良さそうな年配の紳士が立っていました。

 急いで、避けて席を空け、その日の出来事を話しました。私が、家に戻る気になれないんだ!と言うと、それはいけませんね!と言っただけで、それ以上は何も言いませんでした。それから、何となく世間話をして時間になったので、別れましたが、ほんの少しだけ気持ちが楽になっていました。

 それから二週間後にまた、その映画館でばったり出会いました。その日も、家に居ても何もする気になれないので、暇つぶしに出掛けて来たのです。理由は値段が安いから!それだけです。

 相手の方は、息子さんのお供で来たけれど、息子の用事が片付かないので、大好きな映画でも見ようとやって来たと言いました。生憎、その日は以前に何度か見た事がある映画だったという事で、ロビーに座っていたのだと言いました。

 私が先日の礼を言うと、私も暇ですから!と言って笑いました。その日も何となく世間話をして終わりましたが、それからは月に一度くらいの割で会うようになりましたので、いつしか自分の悩みを打ち明けるようになっていました。

 それから暫くして、もう此処へ来る用事もなくなったのであなたにお目に掛かる事もなくなります。と言った後、もし、私に用があればいつでも家に居ますので電話を下さいと言って、自宅の電話番号を教えてくれたのです。まさか、電話だけで10年ものお付き合いになるとその時は夢にも思いませんでしたが。

 特に、私が上司のひどい虐めに遭うようになってからは、毎日のように電話を掛けていましたので、テレフォンカードが毎月20枚以上も消えて行きました。

 それでも、嫌な顔ひとつする事なく、いつも黙って私の話を聞いてくれました。もし、あの時、私の話を聞いてくれる人が一人も居なかったら、今頃、私はどうなっていたか解りません。そんな訳で、私が、うつから立ち直る時も、嬉しい事や楽しい事があった時も、常に電話を掛けていました。

 そんなある日、突然!電話が繋がらなくなり、一ヶ月以上経ってやっと繋がったと思った時は、何とその方の葬儀が終わって自宅へ戻った時だったのです。

 これには私も言葉を失いました。

 その為、後日、日を改めてご自宅に伺い線香を上げさせて頂きましたが、生きている内に、たった一言お礼が言いたかったと思いました。

 息子さんの話では、昼間一人で家に居るので、私からの電話を楽しみにしていて、今日はこんな話があった、あんな話があった!と言って聞かせていたそうです。

 私は、御迷惑を掛けてばかりいると思っていましたが、その話を伺った時、ほっと胸を撫でおろしました。

 私も色々な方とお付き合いをして来ましたが、電話だけで10年ものお付き合いをした方は他にはおりません。今、私がこうして生きて居られるのも、この方のお陰だと、今でも感謝している次第です。